
疲れた心を癒す大人の絵本|夜空を見上げる睡眠前の習慣
2026年2月19日
夜、ベッドに横になって、スマホの画面を何度もスクロールしている。目はとっくに疲れているのに、指だけが止まらない。ガラスの表面はひんやりとして、どこまでも滑らかで、何も返してくれない。タイムラインの光が天井に薄く反射しているのを、ぼんやり見ている。
そんな夜の手触りを、ほんの少しだけ変えてみたときの話。
眠れない夜、指先はガラスの上にある
平日の23時過ぎ。照明を落とした部屋で、布団に入ったまま画面を見つめる。誰かの夕食の写真、知らない人の意見、もう終わったニュース。どれも自分には関係がないのに、親指は上へ上へとスライドし続ける。
画面から放たれるブルーライトが、瞳孔の奥をじわじわと刺す。脳の前頭葉は、情報を処理し続けることで覚醒状態を手放せなくなっている。スマホを触っている間、脳は「まだ昼間ですよ」と錯覚し続ける。止められないのは、意志が弱いからじゃない。指先がガラスに触れるたびに、脳が次の刺激を予期して待ち構えている。その繰り返しが、神経の回路として定着してしまっただけのこと。
ふと、画面を伏せる。天井の暗がりが、急に静かになる。
指先に残っているのは、ガラスのつるりとした感触だけ。冷たくて、平らで、どこにも引っかかりがない。今日一日、どれだけの判断をして、どれだけの言葉を選んで、どれだけの表情をつくっただろう。その全部の疲れが、まだ頭の中でざわざわしている。
このまま眠れない夜を過ごすのか、それとも。
大人の絵本が夜に届けるもの——疲れた心と、手触りの話

スマホを伏せた手が、ベッドサイドに置いてあった一冊に触れる。
指先が最初に感じるのは、表紙の凹凸。布張りのざらりとした繊維の筋、箔押しの文字がほんの少しだけ盛り上がっている感触。ガラスの滑らかさとは正反対の、小さな引っかかりがある。ページを開くと、紙の厚みが指に抵抗する。一枚一枚に重さがあって、めくるたびに空気がかすかに動く。
この「手触りの切り替え」が、思っているよりずっと大きなことを脳に伝えている。
近赤外分光法を使った研究では、絵本のページを眺めているとき、前頭葉皮質の血流が下がることが観測されている。前頭葉皮質は、判断や意思決定を司る場所。つまり、紙のページに目を落としている間、脳は「もう頑張らなくていい」という状態に静かに移行している。ガラスの上では起きなかったことが、紙の上では起きる。
大人が絵本のページに触れている風景を、わざわざ言葉で説明する必要はないと思う。ただ、眠れない夜に、スマホの代わりに手元にあった一冊の表紙に指が触れた。それだけのこと。
美しい装丁の本がベッドサイドにあると、それだけで夜の空気がほんの少し変わる。読まなくてもいい。開かなくてもいい。背表紙のゆるやかなカーブが、間接照明の光をやわらかく受けている。その風景が、部屋の温度をほんの半度だけ上げるような気がする。
夜空を見上げる絵本時間——一冊が連れていく、遠くて静かな場所

夜空が描かれたページを開くと、青が目に広がる。
深い藍色、すこし紫がかった群青、星の周りだけほんのり明るいコバルトブルー。青という色は、副交感神経をゆるやかに優位にする。呼吸がひとつ、深くなる。仕事のメールも、明日の予定も、星の光の中では輪郭がぼやけて、少しだけ遠くなる。
キム・サングン『星をつるよる』(パイ インターナショナル)。夜空から星を釣り上げるという、静かで不思議な物語。作者はインタビューで「一人だけど一人じゃない夜を描きたかった」と語っている。眠れない夜の孤立感が、ページの中のやわらかな闇にそっと包まれる。表紙の深い青は、暗い部屋の中でも存在感がある。手に取ると、夜空をそのまま持ち上げたような重さと静けさがある。

星をつるよる
キム・サングン/すんみ
パイ インターナショナル(2023年)
ISBN: 978-4-7562-5638-6
荒井良二『あさになったのでまどをあけますよ』(偕成社)。こちらは夜明けの絵本。でも、夜から朝へ向かう時間の流れが一冊の中にあって、眠る前に開くと、朝が来ることへの安心感がじんわりと広がる。荒井良二さんの筆致は力強いのに、どこか子どものクレヨンのような自由さがあって、見ているだけで肩の力が抜ける。表紙の色彩は窓から差し込む朝の光そのもので、ベッドサイドに伏せて置くと、その色が枕元にぽつんと灯る。

あさになったのでまどをあけますよ
荒井 良二
偕成社(2011年)
ISBN: 978-4-0323-2380-1
ジミー・リャオ(幾米)『星空』(小学館)。台湾の絵本作家ジミーが描く、孤独な少女と少年が満天の星空の下を旅する物語。言葉は少なく、ページいっぱいに広がる星空の絵が圧倒的に美しい。装丁はマットな手触りで、表紙の星々に指で触れると、印刷のわずかな凹凸を感じる。一人の夜に開くと、絵の中の広大な空が、部屋の天井をどこまでも高くしてくれるような感覚がある。
言葉が少ないページの、静かな力
夜空の絵本に共通しているのは、言葉が少ないこと。ページの大半を絵が占めていて、文字は添えられているだけ。その余白の大きさが、疲れた脳にとっては何よりの休息になる。文字を追いかけなくていい。意味を汲み取らなくていい。ただ、青い色の中に目を泳がせていればいい。
宇宙的なスケールに触れると、不思議なことが起きる。今この瞬間にも、数百億の星が光っているという途方もない事実が、日常の輪郭をやわらかくする。明日のプレゼンも、返していないメッセージも、消えるわけではないけれど、星の光の中ではほんの少しだけ小さく見える。
手が伸びたものが、その夜の一冊
夜空の絵本だけが正解ではない。花の絵本でも、動物の絵本でも、ユーモアたっぷりの絵本でも。その夜の気分が選んだものが、その夜の一冊。静かな絵本が合う夜もあれば、くすっと笑える絵本が合う夜もある。
選ぶときの手がかりがあるとすれば、表紙に触れたときの感覚。手に取って、指先が「ここにいたい」と思うかどうか。書店や図書館で、棚の前に立って、背表紙の色に目が止まった一冊。そういう出会い方が、たぶん一番いい。
触覚、香り、弱い光——夜の風景をつくる小さなもの
絵本の手触りに加えて、もうひとつ、夜の空気を変えるものがある。香り。
ラベンダーの精油をティッシュに一滴だけ落として、枕元に置く。それだけで、鼻から入る情報が変わる。ラベンダーに含まれる酢酸リナリルという成分は、中枢神経に直接はたらきかけて、脳波をゆるやかなリズムに導くことがわかっている。ベルガモットの柑橘系の香りも、寝つきの改善に効果があるという研究結果がある。
大事なのは、香りが強すぎないこと。かすかに、鼻の奥でふっと感じる程度。それくらいがちょうどいい。
照明は、手元だけを照らす小さなあかり。部屋全体が暗くて、本のページと自分の指先だけがぼんやり見えている状態。視覚の情報量が減ると、脳は「もう今日は終わりだ」と理解する。
指先には紙の手触り。鼻にはかすかなラベンダー。目にはページの青と、弱い光。この三つが重なったとき、体は自然と眠りに向かう準備を始める。繰り返すうちに、絵本を手に取るという行為そのものが、脳にとっての「おやすみ」の合図になっていく。
心地よい眠りの手前にある、数分間のこと
眠りにつく直前の数分間を、何に使っているか。
ガラスの上で指を滑らせるか、紙の上で指を止めるか。その違いは、翌朝の目覚めにまで届く。睡眠の質は、眠り始めの90分で決まるといわれている。その90分の入り口に、どんな手触りがあるか。
リネンのシーツの上に、一冊を伏せて置く。表紙の色が、枕元の風景になる。読み終えたわけではない。途中のページが開いたまま、布団のやわらかさの中に沈んでいる。
明日もきっと忙しい。メールは溜まるし、予定は詰まるし、誰かの期待に応える一日が始まる。でも、夜のほんの数分間だけ、指先が触れるものを変えてみた。それだけのことが、朝の空気をほんの少し変えるかもしれない。
枕元の絵本の表紙が、弱い光の中でかすかに青く光っている。星の絵が、天井の暗がりに溶けていく。今夜はもう、スマホに手を伸ばさなくてよさそうだった。