遊ぶなら真剣に遊ぶ、興味がなくなればやめればいい

前回は小川先生に伺った、「子育ての中の遊びの役割」について意外なお答えをいただいたと同時に、凝り固まった遊びについての考え方に気付かされた内容のお話でした。

今回は遠山さんに、遊びと子育てについて伺いたいと思います。

松倉弥生
それでは次に、遠山さんにご質問です。
遊びの中での教育や子育てはどうあるべきだと思いますか?

遠山彬彦さん
うーん、遊びの中での教育や子育てとはどうあるべき?
そうですね、その遊びの取り組み方とか
遊んでいるという事に対して、しっかり集中させてあげるべきかなと思います。

というのも、うちはトランプをやるにしても何をやるにしてもテレビを絶対消すんですね。
なので友達の家に行った時に、ビデオ(テレビ)を流しながらトランプをやっているとか
逆に遊んでいる最中に、他の子が違うことにちょっと集中しだしちゃうことがすごく嫌だったというか。
そう(いった環境)じゃなかったので、嫌だったという思いがあります。

今やっている事に対して、しっかりと集中して、それをやるんだったらとことんやろうよ、やめるんだったらやめようよ。
その選択はしてもいいと思うんだけれども、遊ぶってことに対してどれだけ真剣に向き合うか。
やるんだったら、真剣にやりな。ということが、遊ぶということに対してとても大切かなと思います。

小川大介先生
この小川式:見守り手帳の中にも
真剣に遊ぶってありますね。

遠山彬彦さん
そうなんです。
なので真剣に遊ぶっていうところですね。

さっき遊ぶってことは人生だと、小川先生がおっしゃったのはその通りで。
結局突き詰めていくと、昔やった遊びって意外と社会に出たときに「これってあの遊びと似てない?」というのが多いんですよね。例えばお買い物ごっことか。
幼稚園とか小学校低学年で、自分で折った折り紙を紙のお金で交換するとかあるじゃないですか。
あの時も遊んでいるんですけど、隣のお店で出しているものよりもクオリティの良いものをより安い値段で出せば売れますよね、っていうのが遊びの中に含まれているんですよね。

なので結局遊びを真剣にするっていうのは、何のものであれ、真剣に取り組むっていう事に対して必ず転嫁されると思うんです。
なので今やっている遊びをやるんだったら真剣にしようよ、興味ないんだったらやらなきゃいいじゃんっていうスタンスかなと思います。
なので”真剣に遊ぶ”って書いておいてください!

松倉弥生
分かりました。しっかり書いておきますね!

小川大介先生
今の話で”遊ぶ”って漢字の語源の話をしておくと
”遊ぶ”っていうのはいろいろな所を見物して見て回る、歩き回るっている意味があって。

”遊”って漢字自体のしんにょうは道を示すので、道を行く。
で、残った字は、神様の霊がふらふらとあちこち気ままに動いていくという意味がある。
だから広く言うと、人生を歩むこと自体が「遊」になる。そもそもの語源がね。
心のままに行動する、あちこちに行く、何かをするという全体が遊びだから

言葉自体の語源として、心の向かうままに動くことなんですね。”遊び”って。

それがどっかの段階で、本来やるべきこと以外の無駄な時間みたいな価値観が植え付けられた時代があって。いつからそうなったのか僕も分からないですが・・・
でも少なくとも江戸時代の時点では違った。
明治以降だと思うんだけど、西洋的な価値観が入ってきて遊びとは無駄なことなんだということが、ずいぶん出てきたんだと思う。
改めて現代において、遊ぶという言葉には、字そのものの”心の向かうまま”っていう意味を取り戻していいんじゃないかなと思いますね。

遊ばないと心向かわなくなるから、不健康ですもんね。

松倉弥生
本当にそう思います。
”遊び”って二の次になりがちですが、実は大人にとっても大切なものなんですね。
お2人にお話を伺っていて、気付かされることばかりです。

 

小川先生のおっしゃる通りで、「遊ぶ」ということ自体を無駄な時間のような大人の都合で考えてしまっていた自分に気付いたお話でした。
遠山さんから頂いた「真剣に遊ぶ」ということも、心が向かうままに動くという事なのだと思います。

次回はいよいよ最終回、遠山さんと小川先生が共通する「ぜひ親子で遊んでほしい」という思いをお伺いしたお話です。
次回もぜひお楽しみください。

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